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ビアンキカップへの道’89

ビアンキ カップへの道 89 No.10


【再戦】

戦いのあとに

ビアンキカップは終わった。
大きな人生の区切りとなるイベントにもかかわらず、いつもと何ら変わらぬ空気の中、三日目も過ぎ去っていった。
いったいビアンキカップというのは何だったのか?
撃ち終えた日にそんな疑問が浮かんできた‥‥。

最終日‥‥といっても、ビアンキカップ最終日は上位成績者によって「ショートオフ」が行なわれるだけなので、ぼくには縁がなかった。ただ、ヨーコが、ウーマンチャンプとしてショートオフに臨むため、朝から、ワクワク・ドキドキの興奮にあった。
ヨーコに初めて会ったときの印象は、「まじめな子」というものだった。ハキハキとした感じの優等生で、ぼくと同じクラスだったとしたら、担任の先生も、
“みなさーん、ヨーコちゃんを見習っていい子になりましょうねー。ケンちゃんみたいになったらいけませんよー”
とか何とか言ったに違いない。
そして、だ。真面目な子によくありがちな、物事を思いつめるタイプだと感じた。
「思いつめる」のと「研究熱心」なのは当然ながら全くの別物で、前者は自身を追いこみ、後者は自身を向上させてくれる。ヨーコは不安定で、あたかも、「心が綱渡り」をしているように見えた。シューティングには向かない性格だと思うのだが、ぼくよりずっと上手だ。その証拠に、ショートオフでも楽しみながらガンを撃っている。
ビアンキカップのシュートオフはリーグ戦のため、とにかく長々と戦い続ける。拍手を贈ったり写真を撮ったりしていたら、いつのまにかヨーコがウーマンの1位になっていた。バンザーイ!

シュートオフの夜 ―――― 。
“まあ、色々あったけど楽しかったな”
テツヤがネクタイを締めながら言った。
“オレなんてよお、次はいつ来られるかわかんねえからなあ。来年も来てえなあ‥‥”
着なれぬスーツなど取り出し、成績発表のパーティーに出席する準備を進めていたイナバが答えた。
“そうだ! 来年だ! いいか、ケンもテツヤも来年必ずこいよ。テツヤはプレイトをクリーン。ケンはプレイトの二連覇だ!”
1990年こそは優勝を狙うイチローさんが、横から顔をだして力強く叫ぶ。

広々としたホールでパーティーは行なわれた。30を超えるテーブルには、それぞれ7〜8人ずつが座り、あれこれと会話をハズませながら食事を進める。こんなとき、自分の英語力の低さを痛感する。
<よーし、日本に帰ったらビアンキカップの費用作りと英会話の勉強をやるぞー!>
と決心するのだが、日本に帰るとお金も充分に作れず、英語の勉強もまともに進まないのだから情けない。
とりあえず、今回はテーブルに同席しているのがミッキー ファーラとマイク ダルトンなので、無茶苦茶いっても何とか通じそうで安心だ。すぐ左のテーブルには、ブライアン イーノスの顔も見える。
食事を進めながら成績発表は行なわれるが、これが何ともリッチな気分というか、「これでこそ本物」といった満足感に包まれてくる。
<いつの日か、いやすぐにでも、日本のエアガンシューティングの世界に、この空気を運びたい‥‥>
エアガンシューティングを次の段階まで高めるには、こういったフォーマルな演出は絶対に必要になる。


勝ち取った楯

次々とシューターの名が読み上げられ、トロフィーや楯を受け取っていく。いったい何人目くらいだったろうか、ぼくの名がスピーカーを通して聞こえてきた。
“ほらケンいってこい!”
イチローさんはそう言い、ぼくの背中を押すと、手が赤くなるほど拍手してくれた。
正直、テレくさかった。
マークスマンクラスの1位とはいっても運がよかっただけだし、他人ごとのように考えていたからだ。
立ち上がり、歩き始めたとき、ミッキーが、マイクが、それにブライアン イーノスやジョン プライドもぼくに拍手を贈っているのが見えた。
その拍手は社交辞令ではあるし、ケンという、一人の日本人シューターがいたことは記憶に残るはずもない。
しかし、その瞬間、ホールを埋めつくした拍手は紛れもなくぼくのものだった。その事実が消えることはない。
そう思うと、ある種の感動を覚えた。
それは、勝ったとか負けたとかではなく、自分が生きているという根本的な喜びを、肌で感じた瞬間だった。

楯のほかに、賞金450ドルとスプリングフィールドアーモリーのM1911A1を受賞した。何だか、拾った宝クジが当たったような気分だった。
賞金はコーチ料としてイチローさんに渡そうと考えたが、
“バカな真似はよせ”
と一喝されて願いは果たせなかった。
はじめから受け取ってもらえるとも思わなかったが、あれは受け取ってほしかった。
もし賞金を得られるようなチャンスがあれば、金額に関係なく、それはコーチ料としてイチローさんに渡そうとはじめから決めていたのだ。
同じ理由から、アメリカ滞在中お世話になりっぱなしだったヒロさんに、ガンを受け取ってもらうことにした。
“ケンが初めてもらった賞品のガンだから持っておけ!”
と、ヒロさんは言ったが、ものがものだけに日本には持ち帰れず、こちらは渡すことに成功した。


ビアンキアップとは何か

ビアンキカップが終わった今、すべてのことが幻だったような気もするし、自分の心を見つめ直す時間をもったのだと感謝することもできる。ただ、連載記事の最終回にあたり、どうしても書いておきたいことがいくつかある。
そのひとつが、日本人シューターとして一緒にビアンキカップを戦ったヤスのことだ。
エアガンシューターでありながら、大阪のヤスを知らないとしたらモグリだ。現在、日本最強のエアガンシューターであり、天才的、超人的な強さを誇る。隣りで並んで撃っていると、<これが同じ人間か!>と圧倒される。
間違いなくケンの2倍は巧く、実銃シューティングの技量には3倍もの開きがある。
ビアンキカップに関する記事を読むとどうしてもヨーコが目立ってしまうが、個人的には、ヤスにもう1度チャンスを与へ、その結果を見てみたい。
ぼくが始めてヤスの実力を見せつけられたのは、フォウリングプレイトのベーシックコースを全員で撃っているときだった。
「ベーシックコース」というのは、プレイトをクリーンすべくイチローさんが考え出した練習メニューで、「実力養成コース」とも呼ばれていた。
内容だが、10ヤードからスタンディングで2回プレイトを撃ち、クリーンできたら15ヤードまで退がる。そこで、再びスタンディングで2回撃ち、これもクリーンできたら次は20ヤードだ。そして最後は25ヤード。
制限時間は常に6秒と決められているため、常識はずれのコースともいえる。
「制限時間6秒」といえば10ヤードでのタイムなのだ。
ちょっと考えると、20ヤードは10ヤードの2倍の難しさだな‥‥と思われるが、それは勘違いだ。
20ヤードでのターゲットサイズは10ヤードの4分1になるため、難易度は4倍となって立ちはだかる。
それが25ヤードともなると‥‥。

その日は、ヤスとイチローさんの一騎打ちとなった。
ヨーコをはじめとし、ぼくやイナバでは近寄ることもできないレベルまで、二人の闘いは進んでいた。
二人とも20ヤードラインまでクリーンし、最後の25ヤードからプレイトを撃つことになったのだ。
25ヤードライン。
そこは、「超集中力」と「スーパーテクニック」の両方を身につけたシューターのみが踏み入れる世界で、ケンの実力では20回撃っても1度もクリーンできない。
先攻はイチローさんだった。
「マシーンのような」という言葉があるが、それを目の前で見せられた。静かにガンを抜くと、淡々とコインサイズのプレイトを撃ち倒していった。
無駄も無理もない。意気込みも気負いも感じられない。空気にさえ同化しての射撃だった。
続いたヤスも、人間離れした集中力の中でガンを撃った。二人がクリーンした。
1回 2回 3回‥‥。

二人ともクリーンし続ける。
4回 5回 6回‥‥。
まだ、二人ともに外さない。
それはシューティングの「達人」と「超人」の闘いだった。7回 8回 9回。そして10回。
それでもミスショットは無く勝負はつかない。
その日は引き分けとなった‥‥。

これからも多くの日本人シューターがアメリカでガンを撃つだろうが、ヤスを超えるものは出現しないというのが、ぼくの感想だ。もちろん何の根拠もない。ただ一緒に射撃をしていて、そう感じたまでだ。
そういえば、イチローさんがこう言ったことがある。
“ヤスを見ていると、「才能」っていうものが世の中に本当にあるんだなあっていう気がしてくるな”
エアガンの世界にもスポンサーのシステムが根づけば、将来、多くのシューターが世界に羽ばたける日が来るだろうし、夢も広がると思う。

それにしても‥‥。
ビアンキカップというのはいったい何だったのか? 
大金と時間をかけて、あとには何も残らない。自己満足があるといえばあるが、はたして、それほど満足しているのか疑問だ。
この連載が始まるにあたり、ぼくは、すべて事実を書くと宣言した。そして自分が感じたままのことを君たちに知ってもらった。そこにウソはない。
だから、最後に、もうひとつ事実を書いておこう。
それは日本に帰ってきてからのことになるのだが‥‥。

ぼくはすべての仕事をやめて日本を後にした。フリーで仕事をしている人間が5カ月間も日本を離れていたらどうなるか? 職もなく生活費もなく、アッという間に100万、150万円という借金ができた。
<この先、いったいどうなるのか‥‥>
ぼくには養わなければならない細君と子供がいる。眠れない日が続いた。そのプレッシャーはビアンキカップの100倍はあった。もとより、そうなることは判っていたが、それにしても心地よいものではなかった。
ぼくはズルイ人間なので、困難にぶつかると逃げてきた。それがよくないと知っていても逃げてきた。
「人は自己嫌悪を感じた数だけ成長する」
そう信じているケンは、自分を、逃げ場のない場所に追いこむ必要を感じていた。
意志の強い男は自ら自己を鍛えられるが、弱いケンは自分で自分の背中を押す状況を作る必要があった。

惰性での、食べるためだけの仕事はしたくない。そこからの脱却こそが、ビアンキカップ挑戦の目的でもあった。
我侭なことは判っていたが、コンバットマガジン編集部はぼくの考えを受け入れてくれ、好きな仕事をスタートさせることができた。
帰国後には新しい仕事も開拓した。

ぼくは、ビアンキカップもひとつの経験だと考えている。多種多様の経験を積むことによって人は成長できる。
人生は、どれだけ生きたかでは価値が決まるはずもなく、どう生きたのかが問われるのだと思う。
そのためにもチャレンジし続けたい。
熱く生きるために。


ビアンキカップへの道 89 完


戻ります。
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