3月に入ると、日本からイナバがやってきた。
イナバというのは変わっていて、イチローGUN団の間では「ドジのイナバ」で通っていた。陽気でくだらないジョークを連発し、軽いノリの男ではあるがガンを求め、シューティングを愛し、物事には真剣に取り組むタイプでもある。
もっとも、追求心にいま一歩欠けるためか、シューティングの腕前は一定ラインからあまり伸びていないと、イチローさんも言っている。
しかしだ。イナバは昨年もビアンキカップに出場しているし、ぼくよりもずっと安定したシューティングをみせているので、「センパイ」としてソンケイしている。
まあ、センパイやソンケイが漢字でないところで「尊敬度数」が知れる。なっ!
そして4月になると、テツヤもアメリカへやって来た。もちろんビアンキカップに出場するためで、これで全てのシューターが集まったことになる。
テツヤという男もなかなか面白い。初めて会ったのは84年だった。MGC主催のモデルガン フェスティバルの会場で、一人の少年とも、青年とも呼べないようなマニアが話しかけてきた。つい最近イナカから出てきましたといった感じの、髪の短い男がテツヤだった。
“あ、あ、あの〜。コンバットのケンさんですか。あ、い、い、いつもコンバット読ませてもらってます‥‥”
ドモリながらも、しっかりとぼくの目をみつめて話しかけてきたテツヤが気に入り、毎日のように家へ遊びにくるようになって、現在は親友の一人だ。
テツヤは、ぼくたち家族の住むアパートにイソウロウとして入ることになり、イナバは下村夫妻のアパートに転がり込んだ。
ビアンキカップを目指す我々5人が住んでいるアパートは、ベニシア市という、空気がゆったりと流れるような田舎街にあった。田舎といっても、その昔はカリフォルニア州の首都だった場所で、歴史ある街として知られている。
サンフランシスコから車で1時間ほど北東へ走ったところにあり、夏でも朝夕は涼しく、冬になるとグッと冷える。それでも年間を通じて快適な気候に恵まれ、治安も良いことから、年々人口は増えている。
ここベニシア市は、ケンにとっては第二の古里でもある。
79年、初めてアメリカへ行ったときイチローさんの家でイソウロウ生活をさせてもらったが、そのときのアパートもベニシア市にあるのだ。もちろん、今のイチローさんの家もベニシア市にある。
カリフォルニアに集まった5人のシューター達は、イチローさんの教えを受け、たがいに弱点を克服しながら毎日のように撃ちまくった。5人全員が600発前後の数を撃つのだ。シューティングレンジは鉛で埋まりそうな勢いだった。
さらに、シューティング遠征にも毎週のように出かけた。
「シューティング遠征」というのは、ロサンジェルスにあるISIレンジまで練習のために出掛けるというもので、出発の朝は4時に起き、6時にはブロローンと駆り出していた。500キロも離れたISIレンジに着くのは昼の12時。オニギリをパクつきながらドワン、ドワンと撃ち始めるのが決まりになっている。
そんな遠くまでわざわざやって行くのは、シューターたちの練習場の確保が理由だった。
「5人の目の色かえかえシューター」とイチローさんの計6人が充分に撃ち込むためには、大きなシューティングレンジが必要になる。アパートに近いピッツバーグ シューティングレンジでは、同時に撃てるのは3人までが限界で、他のシューターは順番待ちになってしまう。それを避け、少しでも多くの集中練習を行うための遠征なのだ。
ISIレンジは6人が思う存分に撃てるだけの広さと設備をかね備えている。
本来は会員のみ使用が許されている場所にもかかわらず、大手を振って部外者の日本人シューターが使用できるのは、ISIレンジを経営するマイク ダルトン、ミッキー ファアラのふたりと親友関係にある、イチローさんの「顔」によるものだった。
イチローさんも含めたぼくたち6人は、ISIレンジでの練習ではお金をかけて戦うことが多かった。勝ったり負けたりの他にも、プレイトを退治したとか、バリケイドをやっつけたという単発ものにも賞金が出る。
最高賞金額は$1000(約12万円)で、これは、ムーバーを全X(エックス)でクリーンしたらケンが払うと宣言したものだった。ムーバーの難しさときたらハンパではなく、それを全Xに撃ち込むことは、飛んでいるハエを箸でつかむくらいに気が遠くなる技なのだ。
“でもな、ケン。ミッキーにはその約束をするな。ワシならいいが、ミッキーだとシャレにはならんぞ‥‥”
と、イチローさんは言った。
練習は順調だった。そう、少なくとも何のトラブルもなく練習だけは続いていた。では、成果は? というと好転は見られず、ぼくのフォウリングプレイトのクリーン率は、相変わらず5パーセントにすぎなかった。
他のシューターたちのプレイト クリーン率をみると、テツヤも同じ5パーセントでイナバが10〜20パーセント。ヨーコが70でヤスは95パーセントにまで達していた。
努力はしている。真剣に取り組んでいる。それでもたったの5パーセントだ。どれだけ、そしてどんな練習をしたらヤスのように撃てるのか?
「悩む」というのは進歩するための糧となるので必要だが、イライラしながらの練習はマイナスでしかない。アメリカに着いてからというもの、不安定な精神状態での練習が続いている。
が、そんな個人的な感情などおかまいなしに時間はどんどん過ぎていくのが世の常で、気づけば4月も下旬となり、ビアンキカップの前哨戦ともいえる「スティールチャレンジ」がやってきてしまった。
スティールチャレンジに出場するため、日本から集まったシューターは全部で10人いた。
ビアンキカップ出場のために集まっている5人のほかに、新たに、ハリー高橋、小金井博司、小西剛、石井健夫、長谷川朋之がやって来たのだ。
ハリー、コガネイ、コニシの3人はサンディエゴに本拠地を置きスティールチャレンジの練習に明け暮れた。イシイとトモちゃんの2人は、ぼくのアパートに入ることになった。
“調子はどうですかケンさん”
イシイもトモちゃんも同じことを聞いてきた。バッチリだと言いたかったがウソをついても意味がないので、いまだにプレイトがクリーンできないでいると答えた。
“まだまだ時間があるし、ケンさんなら絶対いけますよ”
“日本でもみんな期待していますから”
2人して励ましてくれるのは嬉しかったが、スティールチャレンジが目前に迫り、ビアンキカップの練習ができるのも3週間たらずでしかない。たった3週間の練習で、5パーセントのクリーン率を90パーセントまで上げなければならない。いや、本番でクリーンするためには、90パーセントでも危ないくらいだ。
<スティールチャレンジの試合の合間にもビアンキカップの練習をしたいなぁ‥‥>
などと考えながら、みんなしてロサンジェルスへ向かった。もちろん、スティールチャレンジ出場のためだ。
ぼくがドライブする車にはイシイが乗り、エアガン シューティングの話から始まって、カスタムガンやビアンキカップに話題は行き着く。ビアンキの話になると、心にズシンとくる。何らかのショック。転機となるものが必要であるとは感じていた。
それは何気ない会話のなかにあった。ロサンジェルスへ向かう途中で取った休憩のときだった。どんな経緯からだったのかは忘れてしまったが、イチローさんが、こんな話をしてくれた‥‥。
“アメリカの劇団にいた日本人の女の子がな、あるとき5人の審査員のまえでパフォーマンスを見せることになってな。パフォーマンスを見せるのはその子だけでなくて劇団員全員で、それは、審査員が優秀と認めた5人を選ぶためだったわけだ。その子の番になったとき。箸を一膳のみ乗せたお盆を手に、和服でピシッと決めて、しずしずと審査員のまえに歩み寄った。お盆を置き、三つ指をついてゆっくりとお辞儀をしたかとおもうと、ズバッと着物のスソをまくって、お盆にまたがり、大便を、もっこりと出した。そのお盆を審査員一人一人の目の前に持っていき、「どうぞ、どうぞ」と言って歩き、そして戻っていった‥‥”
驚いたとか、ショックを受けたとか、そういった言葉では表せない震えに襲われた。
背中の毛穴という毛穴が全て500円玉サイズまで広がり、その穴すべてに、人差し指を付け根まで突っ込まれた。
自分の生き様を反省した。
シューティングの練習に対する心構えを恥じた。
ぼくはアメリカまで来たことに酔い、満足し、それがスタートラインにすぎないことを忘れていた。
これでは、大学に入った後は遊んでいる、アホな大学生と一緒ではないか!
ビアンキカップまで残すところ3週間。
ひとつの光明が見え始めていた。
to be continued